慧日寺 薬師如来像 鑿入れ式

みなさんこんにちは。籔内佐斗司工房の金和です。


先日7月22日に東京藝術大学で行われた、鑿入れ式の様子を写真付きでご紹介したいと思います。

その前に、籔内先生の藝大での活動をあまりご存知ない方のために、福島県会津磐梯町、慧日寺の事について少しご説明させて頂きたいと思います。


会津磐梯町にある慧日寺。

こちらのお寺は、とても古い歴史をもったお寺です。


(写真:遠藤桂)


福島県耶麻郡磐梯町は、東北仏教文化発祥の地とも言われています。

 平安時代初め、奈良東大寺で得度し興福寺で法相学を学んだといわれる高僧・徳一が東国を巡錫し、大同2(807)年にみちのく五薬師のひとつとしてこの地に慧日寺を創建しました。開基が明らかな寺院としては、東北地方で最古のものです。最盛期には、寺僧300、僧兵6,000、子院3,800を数え、18万石が与えられていたと伝えられています。

 

その後、源平合戦で平家方に付いたため一時衰退しましたが、室町時代には復興し、門前町も大いに栄えました。

 

天正17(1589)年、伊達政宗公の会津侵攻の際、金堂を残して全てが焼失・破壊され、その金堂も寛永3(1626)年に焼失し、明治の廃仏毀釈によって廃寺となりました。その後、真言宗豊山派寺院として宗教法人・恵日寺が隣接地に創建され現在に至っています。

 

  6万平方メートルにも及ぶ旧境内の一部は、国の史跡に指定されています。そして磐梯町では、地域振興の目玉として史跡整備を進め、江戸時代に焼失した金堂および中門を町立慧日寺資料館の付属施設として2008年に復元し、次いで今回の薬師如来像の制作を東京藝大に委託しました。その中心人物は、磐梯町町長の五十嵐源市さんで、多くの町民の支援によってこの事業は進められています。


復元された金堂前で行われた平成伎楽団の公演(写真:遠藤桂)



左 五十嵐町長、右 籔内佐斗司 (写真:遠藤桂)


さて、話はノミ入れ式へ戻ります。

今回のノミ入れ式では、磐梯町の五十嵐町長、興福寺の多川貫首、「ありがとう地蔵」のモデルの陸前高田の村上さんなどにもご出席頂き、藝大で開催されました。



写真:ノミを入れる前の寄木で組み立てられて木材


寄木でつくられる今回の薬師如来の制作前の写真が上の写真です。

プロジェクションマッピングで完成予定の仏さまの映像が投影されていますので、イメージがわかりやすいかと思います。


写真:横から見た図


こうしてみていただくと、寄木造の仏像がこのようにして制作されるイメージを御覧いただけるかと思います。異なる大きさの木材を組み合わせて、パーツごとにこれから制作が行われます。



写真:ノミを入れる五十嵐町長


みなさんからノミを入れられた仏像は、今後3年間のプロジェクトとして藝大の研究室のみなさんが籔内教授の監修のもと制作を行います。

そして、最後はみなさんで記念撮影を行ってノミ入れ式は無事に終了しました。


完成予定の仏像の写真がこちらです。

1/4のサイズとなっていますが、完成は古色仕上げという彩色方法でピカピカの仏像ではなく、あたかも何百年もそこにあったかのような色合いに仕上がるという事です。



写真:完成予定の模型 1/4サイズ



写真:古色仕上げ模型 1/5サイズ



Uwamuki Project(籔内佐斗司工房)

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