床の間は、家に聖域を設けるという素晴らしい効用があります。そこは常に清浄に保ち、季節や行事に因んだ軸ものを掛け替え、草花を活けるための失ってはならない住まいのへそです。怠惰に流れやすいわれら凡夫にとって、暮らしにめりはりをつける床の間の重要性は絶大です。安直な温泉宿のようにテレビや人形ケースやたぬきの剥製を置いてはいけないのです。床の間はその成立の過程からみても、書画を掛ける場所なのですから。
茶席では、入室するとまず床の間の掛け軸を拝見します。私のような不粋者でも、何が書いてあるのかを考えることは茶席の楽しみです。茶掛けといわれる掛け軸は、仏典から取られた短い禅語や喝、漢詩、消息などが禅宗のお坊さまの剛毅な筆で書かれています。季節の草花を愛でるとともに、亭主が一期一会の客をもてなすための趣向を探る高雅な遊び心に溢れています。また床の間の掛け軸は鏡のようなもので、覗き込んだひとのこころをそのままに映し出します。
こころに残る禅語がいくつかあります。やぶにらみ流の解釈を添えますが、欲と我執の凝縮体である煩悩居士ゆえ、誤読曲解はご容赦あれ。
「喫茶去(きっさこ)」と書かれたものがあります。「茶を飲んで去れ」と読めば何ともぶっきらぼうなことばですが「去」は単に意味を強めるためのことばで、「まあ、お茶をお飲みなさい」というほどの意味にとれます。なんともさりげないやさしさと含蓄のあることばです。そのように解説されて、慣れない茶席の緊張感も癒され、茶室に座っている自分をいくぶん客観視することができた経験があります。
「行雲流水」も目にします。雲のように悠々として、水のように清く形にとらわれずに生きる。時々の状況に無心に即応し、無碍自在に生きる。ことばにするとかっこいいけれど、実践するのは辛そうです。禅の修行僧を「雲水」と呼ぶのはこのことばからきています。
「知足(ちそく)」もよく見かけることばです。「足るを知る」をことば通りに解釈すれば、「おのれの分わきまえて、満足すること」となります。
このことばは、釈迦が臨終に際し説き遺したといわれる「遺教経(ゆいきょうぎょう)」のなかで、弟子たちが守るべき八つの徳目のひとつに挙げられています。「足ることを知る者は、貧困であっても心が広くゆったりとして安らかである。足ることを知らない者は、富裕であっても心が貪欲に満ちてつねに不安定な状態にある。」に由来します。仏教ではつねに「執着」からの解脱を説きます。すべての苦悩は執着に発し、執着は欲から来る。欲は足ることを知らないこころから生まれます。
「知足」をより深く理解するためには、足ることを知ったことによって得られた「満足」の境地に執着することの罪も知らなければなりません。満足は決して慢心ではないのです。「悟りなんて一瞬のもんやで。気がついては捨てて、気がついては捨ててばっかりで、なあんも残ってへんよ。」さる老僧のことばが思い出されます。
「吾、唯足るを知る」のことばは、龍安寺の「蹲(つくばい)」で有名です。同じ図柄はあちこちにあって、仄聞にしてその成立や由緒は知りませんが「知足」がもとになっていることはわかります。銭のまんなかの四角い穴を「口」の字に見立て五、隹、疋、矢を配して、「吾唯知足」と読ませた愉快な智慧者に敬服します。
私は、最近「開運守銭童子」というちいさなブロンズ作品を作りました。生きるということは、生かされていることだと気付かせてくれる「こぼすなさま」とともに、飽くなき欲を求める現代人に「知足」のこころを語りかける「禅機の童子」です。
「開運守銭童子」讃
守銭童子がかかえてる
古銭に刻みし不思議文字、
四角い穴を口となし 「吾、唯足るを知る」と読む。
釈迦の遺せし「知足」の智慧は 苦悩と執着取り除く。
守銭童子はあなたにそっと
「まだ足りないの?」と諭してくれる。
佐の字、頓首敬白。
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