籔内佐斗司工房

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知足(月刊やぶにらみ第26話)

床の間は、家に聖域を設けるという素晴らしい効用があります。そこは常に清浄に保ち、季節や行事に因んだ軸ものを掛け替え、草花を活けるための失ってはならない住まいのへそです。怠惰に流れやすいわれら凡夫にとって、暮らしにめりはりをつける床の間の重要性は絶大です。安直な温泉宿のようにテレビや人形ケースやたぬきの剥製を置いてはいけないのです。床の間はその成立の過程からみても、書画を掛ける場所なのですから。  茶席では、入室するとまず床の間の掛け軸を拝見します。私のような不粋者でも、何が書いてあるのかを考えることは茶席の楽しみです。茶掛けといわれる掛け軸は、仏典から取られた短い禅語や喝、漢詩、消息などが禅宗のお坊さまの剛毅な筆で書かれています。季節の草花を愛でるとともに、亭主が一期一会の客をもてなすための趣向を探る高雅な遊び心に溢れています。また床の間の掛け軸は鏡のようなもので、覗き込んだひとのこころをそのままに映し出します。こころに残る禅語がいくつかあります。やぶにらみ流の解釈を添えますが、欲と我執の凝縮体である煩悩居士ゆえ、誤読曲解はご容赦あれ。  「喫茶去(きっさこ)」と書かれたものがあります。「茶を飲んで去れ」と読めば何ともぶっきらぼうなことばですが「去」は単に意味を強めるためのことばで、「まあ、お茶をお飲みなさい」というほどの意味にとれます。なんともさりげないやさしさと含蓄のあることばです。そのように解説されて、慣れない茶席の緊張感も癒され、茶室に座っている自分をいくぶん客観視することができた経験があります。  「行雲流水」も目にします。雲のように悠々として、水のように清く形にとらわれずに生きる。時々の状況に無心に即応し、無碍自在に生きる。ことばにするとかっこいいけれど、実践するのは辛そうです。禅の修行僧を「雲水」と呼ぶのはこのことばからきています。「知足(ちそく)」もよく見かけることばです。「足るを知る」をことば通りに解釈すれば、「おのれの分わきまえて、満足すること」となります。 このことばは、釈迦が臨終に際し説き遺したといわれる「遺教経(ゆいきょうぎょう)」のなかで、弟子たちが守るべき八つの徳目のひとつに挙げられています。「足ることを知る者は、貧困であっても心が広くゆったりとして安らかである。足ることを知らない者は、富裕であっても心が貪欲に満ちてつねに不安定な状態にある。」に由来します。仏教ではつねに「執着」からの解脱を説きます。すべての苦悩は執着に発し、執着は欲から来る。欲は足ることを知らないこころから生まれます。

深井桐箱製作所

みなさんこんにちは、籔内佐斗司工房の金和です。本日は、彫刻家・籔内佐斗司の制作した木彫作品が収められる特注の桐箱のご紹介をさせていただきたいと思います。そもそも、なぜ桐箱に作品が入っているのか。見た目がいいから?高価なものだから?いえ、きちんとした昔ながらの知識に基づいて作品を桐箱に収めています。本日ご紹介させていただくのは、東京上野で3代目として桐箱のオーダーメイド制作を行っている深井桐箱製作所の深井惣一さんです。深井さんのおじいさんが始めた深井桐箱製作所は、昭和10年頃からスタートし、最初はメダルや硬貨をしまう桐箱を作る仕事から始まったそうです。その後、深井さんのお父さんの代で焼き物のオーダーメイドの桐箱制作を行い、3代目の深井さんの代でこれらの先代から受け継がれた技術をもとに、2000年から籔内佐斗司の木彫作品の桐箱制作を行ってくださっています。籔内佐斗司が当時使っていた桐箱は、作品が中で動いてしまい、修理を行うことが多かったため、作品が固定されて動かない桐箱を制作できる人を探していたところ、知り合いの方を通して籔内佐斗司と知り合い、試行錯誤を繰り返しながら現在の仕掛けが施された桐箱を生み出し、現在まで16年間もの間お世話になっています。興味深々の私、桐箱制作を行っている現場に取材に伺ってまいりました。その様子をまとめさせていただきましたので、ぜひご覧ください。(2020.2 東京都足立区へ移転 )

ART

「art」の訳語である「芸術」を三省堂・新明解国語辞典でひくと、「ある決まった材料・様式によって美を表現する人間活動とその産物」とありました。簡潔にして含蓄のある明解な定義です。またその「美」とはなんぞやと尋ぬれば、「①美しい・こと(もの)。②よいこと。ほめる価値の有ること。」とありました。次に本誌の誌名でもある「美術」をひくと、「〔文芸や音楽と違って〕色や形により美を表現する芸術。」とありました。以上のことを念頭に、今回は芸術について真正面から考えてみることにします。 芸術の分野に、コンセプチュアルアート、ハプニングあるいはパフォーマンスなどと呼ばれる表現形式があります。「かたかな」で表わされることからもわかるように、戦後新しい芸術としてアメリカのアートシーンの中で発展したものです。ピアニストが両手でピアノの鍵盤を巧みにたたくことや、ダンサーが鍛え抜かれた肉体と技術で華麗に舞うこと、あるいは画家がキャンバスに絵の具を塗っていくことが芸術家の行為と認められるなら、芸術家が自分の表現であると規定した行為はすべて芸術であるとする考えです。「まず、芸術家ありき」という近代西洋美学の究極の姿です。 ものを作るのではなく、行為や状況を表現し、ひとに見せるということは、音楽や舞踊、演劇とおなじですが、表現技術の優劣よりはその独創性にこそ価値を見い出そうとしたのです。